香川

香川県(かがわけん)は、日本の都道府県の一つで瀬戸内海に面した四国地方北東部に位置する県。廃藩置県以前は讃岐国と呼ばれていた。

全国47都道府県中1番小さい面積の中には、古来より雨量、河川の流水量ともに少なく干ばつに備えて県内各地に14,000を超える溜池がつくられ点在している。これは県内に高山がなく、高低差があまりないからである。

北部に広がる瀬戸内海には小豆島など多くの島々が点在。本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により道路・鉄道で結ばれており、瀬戸内地方の重要な交通要所の一つである。(瀬戸大橋架橋以前から)山陽地方や阪神地方との繋がりが強い。特に岡山県との間においては、民間テレビ放送局が共通であることや経済的な結びつきの強さなどもあり(岡山都市圏)、一体感も生まれている。香川県・岡山県ともに上方志向であるうえ、広島県や愛媛県への対抗心も少なからず共有している。

麺のコシがしっかりとした讃岐うどん、こんぴらさんの愛称で親しまれる金刀比羅宮、空海の生誕地としても知られる善通寺(四国八十八箇所の一つ)、寛永通宝の銭形砂絵で知られる観音寺、岡山県倉敷市から坂出市にかけて海上に架けられた瀬戸大橋が有名である。

県庁庁舎の設計は丹下健三。なお、丹下は香川県立体育館、県営一宮団地も設計している。

『日本書紀』などには讃岐国は洪水や旱魃、地震などの自然災害が多い土地であると記されており、讃岐では溜池の開発や雨乞い儀式などが行われていた。大宝年間から工事が開始され、弘法大師空海が修築工事を指導したとされる満濃池のほか多くの溜池が開発され、溜池により耕地は灌漑された。菅原道真も一時讃岐国国主となっている。

平安時代には東国(関東地方)での平将門の乱に乗じて藤原純友が伊予国(愛媛県)で蜂起し、純友は讃岐国の国府を陥落させる。朝廷が追捕使として小野好古を派遣すると讃岐国の武士も乱の平定のために戦う。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐に流罪され、同地で没している。平安時代後期には源平合戦の1つである屋島の合戦が行われる。一ノ谷の合戦で源義経に敗れた平氏は屋島の戦い(高松市内)においても義経軍の背後からの急襲で敗北し、以後平氏は瀬戸内海における制海権を失う。

足利尊氏らの活躍で鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇の建武の新政が始まると、讃岐国には足利氏の一門である細川定禅が入府する。以後南北朝時代を経て室町時代を通じて細川氏が守護大名として讃岐を支配する。室町幕府内での政争に敗れて南朝に味方した細川清氏は、従弟の細川頼之と戦い敗れる(白峰合戦、現宇多津町・坂出市)。

讃岐国では管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため、阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が多かった。戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。

戦国時代には讃岐では東に安富氏、西に香川氏が割拠し、両者中間の香川・綾歌郡に中小豪族が並立していた。この内、安富氏が三好氏の援助を受けた三木郡の十河氏によって滅びると若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入った。

中央で織田信長が天下統一事業を行っている頃、四国に置いては細川氏に代わり三好氏が台頭し、三好長慶は讃岐国の実質的支配者となる。戦国時代には長宗我部氏が三好氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻して平定される。豊臣秀吉が四国征伐を行うと讃岐へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は生駒氏が封ぜられる。当初は宇多津に拠点が置かれたが、後、讃岐国の中央に当たる高松に拠点が移された。

生駒氏が生駒騒動によって出羽国へ移されると、水戸徳川家の嫡流である徳川頼重が高松に入って東讃を、京極氏が丸亀に入って西讃を領する。途中、京極丸亀藩は支藩として多度津藩を分立させたため江戸時代の讃岐国は3藩が並立することになった。高松藩は平賀源内が出ている。

讃岐国は高松、丸亀、多度津の三藩と徳川幕府の直轄地である天領および津山藩の一部により形成されており、1871年に廃藩置県により高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩・天領は倉敷県の管轄、津山藩の一部はそのまま津山県となる。その後すぐに倉敷県の管轄地が丸亀県へと移されたのち、同年に高松県と丸亀県を合併し香川県が設置され、1873年に小豆島西部を編入することで現在の香川県(第1次)と同じ管轄範囲(行政区画は88に分割)となる。しかし、翌年の1873年に現在の徳島県にあたる名東県へ併合され、その2年後の1875年に香川県(第2次)として再置、翌年の1876年には愛媛県に併合される。併合のたびに地理的要因、異なる地域文化、住民意識の不一致などにより香川県としての単独を望む声が高まり、最終的には1888年香川県(第3次)が設置され、現在に至る。